History

経歴

1932年12月22日、東京・芝に生まれる。16歳からギターを弾き始め、ジャズと現代音楽を学び、十代の終わりには早くもプロのギタリストとしての活動を開始。鬼敏剛トップハット、西良三郎クインテット、ダディ・リトル・コンボ、佐久間牧雄ジョーカーズ・クインテットなどで腕を磨く(生涯の愛称「JOJO」は、この時期にダディ・リトルに名付けられたもの)。また龝吉敏子、渡辺貞夫をはじめ多数のジャズ・ミュージシャンとのジャム・セッションに明け暮れる。

1954年にはニュー・ディレクション・カルテットを結成(後述する「ニュー・ディレクション」とは異なる)。レニー・トリスターノの影響のもと、「<集団即興>」「スダンダードの和声を借用した完全なインプロヴィゼーションの行為」(高柳『汎音楽論集』所収のインタビュー「狂体への憧憬」より引用)の試みを開始。1958年には銀座のシャンソン喫茶〈銀巴里〉を拠点に「新世紀音楽研究所」を主宰。ジャズという音楽の新しい地平を切り拓くべく、研鑽を重ねる。

1963年から一年間、麻薬取締法違反の廉で演奏活動を停止するが、1964年以降は拠点をいくつか変えながらも、当時はまだ日本に存在せず、米国のジャズ・シーンでも生まれたばかりであった「フリー・ジャズ」という新しい音楽への取り組みを開始。1969年には「ニュー・ディレクション」(New Direction)の旗印のもと、「集団投射」(mass projection)および「漸次投射」(gradually projection)と名付けた「(即興演奏の)大雑把な枠組み」(前出「狂体への憧憬」より)の追求を開始する。同年、吉沢元治(ベースほか)、豊住芳三郎(ドラムスほか)、佐藤敏夫(タイムコンダクト)と共にニュー・ディレクションとして初のアルバム『INDEPENDENCE』を発表。

なお、ニュー・ディレクションの胎動期とも言えるこの時期に、最も身近な理解者であり生涯の伴侶となった道子夫人と結婚した(1965年)。

ニュー・ディレクションとしての活動は、1960年代の終わりから1980年代前半にかけて、阿部薫(サックスほか)とのデュオや山崎比呂志・ジョー水城のダブル・ドラム編成、森剣治(サックスほか)・井野信義(ベース)・山崎比呂志とのカルテットなど、共演者/編成/グループ名※の変更を繰り返しながら繰り広げられ、1980年にはドイツ西部のメールスで行われたジャズ・フェスティバルに出演した。

フリー・ジャズを追求するニュー・ディレクションでの活動と並行して、高柳の出発点とも言えるクール・ジャズを追求する「セカンド・コンセプト」(Second Concept。ピアノ:弘勢憲二、ベース:井野信義、ドラムス:山崎比呂志とのカルテット。1978年~)や、従来のジャズの方法と形式に基づくフリーというスタイルを追求する「アングリー・ウェーブス」(Angry Waves。井野信義、山崎比呂志とのトリオ。1982年~)の活動も展開。

その一方でニュー・ディレクションの活動は次第に先鋭化を極め、最終的にはギター二本(もうひとりは飯島晃)とパーカッション(山崎比呂志)という編成にカセットテープ音源を組み合わせたものになり、高柳の音楽の最終形態である、高柳ひとりで複数台のギターとカセットテープ音源、各種エフェクターを使用したソロ演奏の「アクション・ダイレクト」(action direct)へと発展していく。

アクション・ダイレクトの演奏活動は1985年に始まり、死の直前まで6年間続けられた。1990年12月16日に浜松〈シティ8〉にて、高柳の活動の中で最も過激にして最高と言われる『カダフィのテーマ』を演奏(録音はのちに高柳の遺作音源として発表された)。体調が悪化する中、1991年4月には三本のライブ演奏を行なったが、4月27日に名古屋〈ギャラリーないとう〉で行ったアクション・ダイレクトの演奏が、最後のライブとなった。1991年6月23日、肝不全のため永眠。享年58。

死後、1992年に、『スイングジャーナル』誌が過去一年間を通じて日本のジャズ界の発展に最も大きく貢献した人物に贈る南里文雄賞(第17回)を受賞。

※ニュー・ディレクションとしての活動は、共演者や編成の変遷に応じるように、グループ名がニュー・ディレクション・フォー・ジ・アーツ、ニュー・ディレクション・ユニットと変わったが、本稿では大元の名称である「ニュー・ディレクション」のみを使用した。